ストレスとこどもの視力
心因性視覚障害という言葉は日常あまり聞き慣れないと思われますが、最近では小学生における眼の健康という面からは大きな問題となっている疾患です。心因性視覚障害は決して近年新たに出現した疾患ではなく、最初の症例報告は心理学で有名なシグモンド. フロイト博士により約100年前に既になされています(1910)。心因性視覚障害はこれまでヒステリー盲、ヒステリー弱視、心因性弱視というような呼び方をされてきましたが、現在では心因性視覚障害あるいは転換型視覚障害(Visual Conversion Reactio, VCR) と呼ばれることが多いようです。ここでは心因性視覚障害の臨床的特徴、診断方法、原因そして治療法について簡単に述べたいと思います。
心因性視覚障害は主として年齢8〜12歳の女児に見られます。発症年齢については当院の統計では8歳前後にピークが認められます。心因性視覚障害は多くの場合に比較的急速に両眼の視力低下を認めたという主訴で受診となります。ある子どもはすでに他の眼科医を受診して、「原因不明の視力低下」というような診断を受けて当院を受診されることもしばしばです。
眼科的検査においては、視力は0.1前後のことが多く、通常の方法ではレンズにより光学的矯正を行なっても視力は改善されません。眼科的な一般検査、すなわち、角膜、水晶体、硝子体、網膜、眼球運動、瞳孔運動などの検査は通常全て正常であり、子どもの視力低下を説明できる所見はありません。そのために過去には心因性弱視等という診断名がつけられたのだと思いますが、弱視の原因となる屈折異常、斜視などが無いのですから、弱視と呼ぶのは正しくないと思います。
ここで特徴的なのは視力検査に於いて、特殊な中和法という方法を使用して、検者がじっくりと時間をかけて検査すると視力が1.2まで出る場合がかなりあるということです。その他の特徴としては視力が診察日ごとに動揺すること、また視力検査で得られた視力(例えば0.05あるいは0.1) と実際の日常の視行動が一致しない場合が多く見られます。例えば視力が0.05であるのに遠くの看板の字が読めたりすることがあります。
この中和法により矯正視力が改善するという傾向にくわえて、もう一つ診断に重要なのは視野の検査です。視野とはそれぞれの眼で見える範囲を示しますが、通常では片眼の視野の大きさはそれぞれ水平方向は約140〜150度、垂直方向は130〜140度あるのが普通ですが、心因性視覚障害の子どもでは、視野検査中にどんどん視野が狭くなってしまういわゆる螺旋状の視野、あるいは視野が細い管の様に狭くなったしまう管状視野などを示すことが多くあります。このように視野の検査を行なうことは、診断を確定するために非常に重要です。
それはまたそのように急実な視力低下を示す子供で、眼科的に其の視力低下を説明しうる所見が無い場合には、心因性視覚障害を積極的に疑うことが大切です。当病院を受診する前に脳神経外科的な検査、すなわちCT, MRI等の検査まで受けた子どももありますが、心因性視覚障害と考えられる子どもではこのような検査を行なう必要はありません。

どうしてこのような変化が起きるのでしょうか?またどうして女子に多いのでしょうか?この疾患は我が国に特に多いのでしょうか?いろいろな疑問が湧いてきますが、まずこの心因性視覚障害の原因としては何らかの心理的ストレスの存在が考えられます。ストレスは人間が生きている限り、常に存在するものですが、成人の場合には心理的ストレスを感じてもそれを処理する能力(stress management)が備わっているように思われます。一方子どもに於いてはストレスがかかった場合には其のストレスを受け止めてそれを自分の中で処理する能力が成人と比較して未完成であるように思います。従ってこのような処理出来ないストレスを外に逃がす為に、「眼が見えない」「周りが暗い」「耳が聞こえない」「足が痛い」また「おなかが痛い」というような一見ストレスと関係のない愁訴として転換してしまうのではないかとか考えられています。
ではどのようなストレスがかかっているのでしょうか?これは今までの報告からもその原因がはっきりするのは半分以下であるとしており、私の印象でも同じです。また原因が一つでなく複数である場合もあるように思います。ストレスの原因がある程度推定できたものの中では、やはり学校(この場合小学校ですが) に於ける問題、友達との関係、家庭内に於ける問題、学校が終わってからの塾などの問題などがあり、其の種類はまことに多種多様です。
学校に関するものに関しては、担任の先生との関係、クラスの友達との関係、そして給食に関する好き嫌いなどもかなりありました。小学校に於ける発症に関して特徴的なのは圧倒的に8歳児、つまり小学校3年生の時期が多いのに注目されます。これは小学校1〜2年が幼稚園からの延長と言う要素があるのに対し、小学校中学年になると勉強、教室に於ける規律などにより重点が置かれ、子どものとってもよりストレスを感じやすくなるのではないかと考えられます。
友達の問題は学校そして学校が終わってからもありますが、子どもの時期はやはり遊ぶ友達の選択にかなり特殊性があり、其の傾向は特に女子に強いのではないかと思います。
家庭の問題としては、これまた多様ですが、両親の問題、また親が働いている為に充分子供と一緒にいることが出来ないなどの問題、また兄弟に受験の子がいたり、あるいは病気の子どもがいたりして、親が充分にその子供に接してあげられないことなどが問題になることも少なく無い様です。また私は新たに赤ちゃんが出来て家族の注意が皆赤ちゃんに行ってしまい、寂しいなどと感じている子どもしばしば見受けられました。
塾などの問題は親が教育熱心なあまり、学校が終わってからいくつもの塾あるいは稽古ごとに通うことにより、子どもが疲れきってしまう状態があります。現在関東地区ではでは週に2〜3日はどこかに通うという子は決して珍しくありません。心因性視覚障害の症状を呈したこどもの中には週に5日などという極端な場合もありました。このような場合には塾のスケジュールを少し楽にしてあげると症状が改善することがあります。子どもは色々な事に興味がありますから、ついつい多くなってしまうのには注意しなければなりません。以上心因性視覚障害を起こしうる原因について簡単に述べましたが、実際にはこれ以外の原因も数多くあります。

私はまず心因性視覚障害においては出来るだけ診断をはやく確立して、CT、MRIなどの本来必要の無い検査まで行なわないようにすることが重要であると思います。そして親にはこれは時間がくれば自然になおっていくものであるということを説明し、不必要な不安を与えないようにするにします。この心因性視覚障害は原因がストレスにあると考えられることより、このような状態のお子様とはなるべくながく時間をかけてお話をすること、そして医師と患者としての信頼関係を築くことが重要と感じています。また実際に検査を行なう視能訓練士も優しく理解ある態度で接し、診断に重要な情報を提供することが重要です。
眼科に於ける治療は定期的な視力検査、視野検査を行なっていくことです。現在当科では点眼、内服治療は行なっていません。いうまでもありませんが、子どものご両親が心因性視覚障害という疾患について、理解することが非常に重要です。毎日一緒に生活していると、このような精神的な変化に気付きにくい場合もしばしばあります。ご両親がじっくりとお子様とお話をすることが重要であり、それに加えて小学校の担任の先生、保健の先生との連携を取ることも非常に重要なことです。

一方心因性視覚障害のお子様の中には眼鏡願望の子どもがかなりいらっしゃるので、このような場合には弱い度の入った眼鏡を処方することがしばしばあります。眼鏡を装用することにより視力が改善することが多く認められます。この理由としては眼鏡をかけることにより視力検査への不安が減少あるいは消失するのではないかと考えています。

多くの場合には大体12Äb0ヶ月〜24Äb0ヶ月でこのような状態が解消されることが多いのですが、中には2年近くかかっても解消しない場合があります。このような場合には小児精神科、小児科、臨床心理士などとの連携も重要になります。

心因性視力障害報告は決して我が国に特徴的なものではなく各国で同様の報告がなされています。また女子に多いということも全く一致しています。当病院の統計では女子の比率は85%くらいとなっています。どうして女子に多いのかということはまだはっきりとした説明できるものはありません。これは男性と女性とのジェンダーの相違を論ずる面からも極めて興味深いことと考えられます。
またもう一つの考え方として、これは精神的成長過程における一つの過程であるという事です。成長するにたがって,種々の問題、ストレスが生じて来て,こどもたちはそれらに立ち向かわなくてはなりません。目の前に出された問題を解決していくのは大人で模様にな事ではありません。これらがこどもたちに圧力をかけ、苦しめているのだろうと考えられます。こどもたちが一日、一日と成長しくにつれて、徐々の症状が軽減していくとも考えられます。

心因性視覚障害の治療法についてはまだ確立した物は内ように思われます。最初に行わなければならないのは何がストレス(stressor)の原因になっておるのか同定する事ですが、筆者の経験でははっきりとした原因が分かるのは50%以下のように思われます。それには眼科領域では無理であり、小児精神眼領域で検査する必要があります。ストレスを与えている原因については臨床心理士が時間をかけて調べる必要があります。このように小児精神科領域、眼科領域、学校関係者、家族の協力が必要ですが、これは決して簡単な事ではありません。
ここでは心因性視覚障害の事を主として述べたげ,視覚以外にも、聴覚、内科的症状、関節痛などがある事が報告されています。まだ不明な点は多いのです。私は医師、家族がよく本人の話を聞いてあげる事が、症状改善の第一歩となるのではないかと考えています。

ひとついえることはこの心因性視覚障害の子どもの数は増加傾向にあるのではないかということです。世の中がより豊かに、便利になっていく反面、子どもにとっては安らぎの少ない、ストレスのかかりやすい環境になっているのかもしれません。今後は子どもをそのような苦しみから救う為に、さきほど述べたように眼科医のみならず、精神科医、小児科医、教育関係者、臨床心理士を含むソーシャルワーカー等が協力していかなくてはいけないと思います。
Copyright © KASHIWA KIBOU EYE-CLINIC.